「青春時代の日記」をいつ処分すれば良いか? 60代半ばで初めて読んでみて、思ったこと

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1973年2月、18歳の日記を、初めて読んでみました

私は青春時代に日記を書いていました。

1973年2月1日から1979年12月1日まで、高校3年生の2月1日から予備校、大学生、新社会人までの凡そ8年間の青臭い日々を綴った日記です。

長い間、押入の奥のダンボール箱の中にしまいっぱなしで、目にすれることは全くありませんでした。

しかし、先日、ユーチューブに動画をアップするときに、ついに初期の頃のいくつかの日記を読んでしまいました。

1973年2月といえば、高校3年生で現役受験の月でした

自分が書いた日記を読むのは、初めてのことでした。

つまり。

今から47年前のページとページの中にあった空気や目に見えないものが47年ぶりにページの外へ出たことになります。それが匂いとなって私の鼻穴を突きました。

日記は全部で20冊ほど、最初の方はびっしりと綴っていましたが、後半になるとたまにしか書かなくなり、2、3行で済ます日が増え、やがて日記は自然消滅という形で終了となってしまいました。

いくつか、ここに抜粋して書いてみます。

下記の文章は、18歳の私が最初の日記のプロローグとして書いたものです

作家になるか、放送局でお勤めするか、大学に残るのか、いろいろと将来のことを考えているけれど、まず、大学に入ることだ。それが、将来への一番近道になるのだから。

でも、近道への道は遠い。

涙を流すのが好きか。

喜びを見せるのが好きか。

常に最高のものを望むために、忍耐、努力、勇気、誠実、夢、愛情、そして僕のために力を貸してくれた人への感謝の気持ち。

僕は忘れない。これからを生きていくために。

日記の書き始めの1972年2月というのは大学受験の月で、そもそも日記を書き始めたのも、受験などこういう節目の出来事を書き留めたいという目的があったからでした。

1973年2月17日(土)

今日は生まれて初めて大学入試をした。上智大学に着いたのは8時前。早すぎるくらいだが、多くの受験生がすでに来ていた。

英語:はじめは予定通り後ろからやったら去年と違う形式で焦った。でも、80%くらいできたと思う。

社会:これはなんか去年より難しかったみたい。あまりよくできなかった。60%くらい。

国語:僕が一番苦手なやつだ。0%~90%。つまり、できているのかできていないのかわからない。たぶんできていないと思う。

1973年2月19日(月)

今日は本命の慶応の試験があった。東京は雨だった。真冬の北海道には考えられない。日吉も雨だった。

慶応の受験番号は3467。テストは難しかった。

英語:例年と違って難しく感じた。予定の点数の100点はおそらくいかないだろう。僕の能力がテストの難しさについて行けなかった。

社会:世界史にしようか、地理にしようかまよった。最初、答案に目を通して、地理の方が簡単にみえた。地理を少し考えたけど、わからないところがあったので、世界史に変えた。20分くらいやって世界史がこまごましているので、地理に変えた。10分くらいやったけど、僕の弱点である中国が出た。でも、世界史よりはマシだろう。でも、予想を下回って50%くらいだ。

総合でみると、250分の150点くらい。つまり落ちたのだ。

1973年2月27日(火)

東京最後の受験、早稲田へ行った。ヘルメットをかぶった学生がマイクで怒鳴っていた。正門をくぐった早稲田はなぜか大きく見えた。試験は10時から始まった。

受験番号は910。部屋の中で一番最後だった。

英語:予定通りいかなく悪かった

国語:難しかったけど、帰りにもらった解答用紙を見てみると、なんと合っているではないか。

地理:これも難しかった。

結局、早稲田も合格はムリということになる。

自信たっぷりに東京の大学を受験しましたが、結局、全部不合格。最初に浮かんだのは母の顔でした。母に申し訳ないという気持ちを綴っている文章もあります。この文章は、私自身が辛くなるので割愛します。

いきがっても、所詮18歳の子どもでした。

1974年1浪でリベンジ、受験に余裕がありました

浪人し、1年後の受験の時は、同じく自信がありましたし、現役の時よりもはるかに余裕があったように思えます。

1974年2月19日(火)

日吉まで汽車(←原文のまま)に揺られていった。まだ、準備ができていないらしく、駅の前の道路を渡ると、慶応の受験生であふれていた。江川は、着いていないのかなと思い、辺りを見回すと、カメラマンがあちこちにいた。江川はまだ来ていないようである。試験場は今まで受験した大学の何倍も広かった。

結果は、合格間違いないだろうと思った。

これで落ちたら、もうどこの大学も入れない気がした。

女の子はあまりいなかった。つまり、可愛い女の子はいなかった。私は江川(←江川卓:慶応とは縁がなく法政へいった)に会っていこうと思った。しかし、大混雑で、振り返ることさえできなかった。

今日も雨が降っていた。ささやかな霧のような雨が。去年も、慶応受験の日は雨だった。しかし、今年の雨は、もうすぐ晴れるだろう。

日記は1日の出来事より、恋の気持ち、愛の詩を綴る場へ

結局、私は希望通りの大学に合格できました。

大学時代は、文学青年もどきになり、日記に詩を書き始めます。

人生を振り返った時、私は、日記を書かなければよかったと思います。

日記を前向きに書けるとよいのですが、私は女の子に恋をし、恋をすることに酔い、才能も何もないのに詩を書き始めてしまったのです。

文学的な才能がないのはわかっていましたが、恋=詩という考えがどういうわけか私の中にあり、大学時代の日記は1日の記録というよりも女の子への思いと詩をつづるための、ある種の捌け口のような役割に変貌していきました。

ページをめくり、ちらっと見ただけで恥ずかしく、このブログで発表できる箇所を探すのも一苦労でした。

踊子を求めて、信州戸隠へ、新潟佐渡へ

また、川端康成に傾倒していた時期があり、伊豆の踊子に出て来る「高等学校の制帽をかぶった二十歳の学生である私」に負けないよう、20歳の夏に信州、新潟佐渡へ一人旅をしています。

むろん、旅の一座の踊子に匹敵する女性との出会いはなく、ただ寂しい思いをしました。戸隠では「白い花咲く野辺にて」という詩を書き、新潟県村上市にある本家の酒造屋にはアポなしで突然訪ねるという若い暴挙もありました。それらの日々を「白い日記」というタイトルで綴っています

さて、ここからが本日のブログの本題です。私は、日記をいくつか読んでみて、思いました。この日記と共に、いつまで暮らすのだろうかと。

青春は死んだ。老人として生きるために、日記をいつ、どのように処分しようか

押入奥のダンボール箱に仕舞っておけば、生活の邪魔にはなりません。妻は私の日記が家のどこかにあることは知っていますが、正確な位置はわかっていません。

日常を暮らすうえでは、何も問題はありません。

しかし、私は60代の半ばを過ぎました。四捨五入すれば、70歳の立派なおじいちゃんです。

いつ、ぽっくり逝くかわかりません。

亡くなった後に、これらの日記を妻に処分させるのはダメだろうと思うようになりました。万が一、娘が私を偲んで読むかもしれません。1970年代の高校生・大学生の頃の父親を知るために!

東京生活を金銭に困りながらも学業にいそしんでいた。学生時代に出会った友人やガールフレンドと貧しいながらも楽しく過ごしていた。という内容ならよいのだけど、私の日記の70%はそうじゃありません。こんなの娘や妻にはとても見せられません。

というわけで、私が元気なうちに日記を捨てなくちゃと思い始めています。

私の日記にまつわる、妻との会話

食事の時、妻にちょこっと相談したら、「ゴミの日に捨てればいいじゃない。今度の燃えるゴミの日でもいいわ」と言います。

「それじゃ味気なくないか」

「処分したいんでしょう」

「ああ、70歳くらいに」

「70歳なんて言わず、処分したいと思ったら、早い方がいいわ。どうせ70歳になったら、捨てたくないと言い出すんだし」

「もうちょっと、青春を、そばに置いておきたいなって思って」

「何が青春よ、66歳はもうおじいちゃんなのよ。わかってるの、ねえ」

このあと、私の年齢の方へ話がすすみ、日記の処分に関して、よい案は出ませんでした。

私は、青春時代の日記とのお別れの儀式として、「燃やす」か、「シュレッターにかける」か、どちらを考えています。

他に良い方法があれば、みなさんに教えて欲しい気もしますが、あと4年間、青春を綴った日記との最良の別れ方を模索してまいりたいと思います。


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