#317日前 日本の文豪は「女性」や「裸身」をどう書いたか どんな感情を持ったか

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私は厭らしい話が好きな、厭らしいタコ星人である。

「厭らしさ」がなければ、異性と惹かれ合うことはないだろう。「愛」の全て、とまでは言わないが、「厭らしさ」は「愛」の証なのである。

しかし、広告付きのブログである以上、ブログの内容にも健全化が求められる。そういう葛藤があり、「愛」とか「恋」の話が少なくなってきている。

そもそも「タコ星人の素敵な片思い」というタイトルも、もともとは異なるタイトルであった。「素敵な」ではなく、上記の一行目に述べたことを反映させるような言葉が入っていた。それも健全化のために自らNGとし、自主的に非公開にしたブログもあった。

「最近、恋の話が全くないな」とユーチューバーの友達に言われたが、そういう訳だった。

愛や恋は、厭らしいものだ。しかし、日本の文豪たちは、そのような不埒な感情をストレートに表現しない。

例えば、二十歳の学生が温泉地で十代の少女の裸身を見たらどんな感情を抱くだろう。

川端康成は「伊豆の踊子」でこんなふうに述べている。

彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七、八人の裸体がぼんやり浮かんでいた。
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出してきたかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手をいっぱいに伸して何か叫んでいる。手拭いもないまっ裸だ。それが踊り子だった。若桐のように足のよく伸びた裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びでまっ裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。

例えば、十五歳の少女と同居を始めたサラリーマンの男の理想の生活は?

谷崎潤一郎は「痴人の愛」でこう述べている。

一人の少女を友達にして、朝夕彼女の発育のさまを眺めながら、明るく晴れやかに、云わば遊びのような気分で、一軒の家に住むと云うことは、正式の家庭を作るのとは違った、又格別な興味があるように思えました。つまり私とナオミでたわいのないままごとをする。「世帯を持つ」と云うようなシチ面倒臭い意味でなしに、呑気なシンプル・ライフを送る。これが私の望みでした。

例えば、女性のあらわな乳房を見たら男は何を感じるか。

三島由紀夫は「金閣寺」でこう述べている。

かくて私は、目の前で帯揚げが解かれ、多くの紐が解かれ、帯が絹の叫びをあげて解かれるのを見た。女の衿は崩れた。白い胸がほのかにみえるところから、女の手は左の乳房を掻き出して、私の前に示した・・・
(中略)
・・・美の不毛の不快の性質がそれに賦与されて、乳房は私の目の前にありながら、徐々にそれ自体の原理の裡にとじこもった。薔薇が薔薇の原理にとじこもるように。
私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美と官能とを同時に見出すところよりも、はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取り戻し、・・・・肉を乗り越え、‥‥不快のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。
私の言おうとしていることを察してもらいたい。又そこに金閣が出現した。というよりは、乳房が金閣に変貌したのである。

うーん。文豪たちのこういう文章を読むと、ブログには健全化が求められるという、私の前段の言葉は、非常に陳腐な言い訳にしか聞こえなくなる。

反省するとともに、表現に対する勇気のようなものを文豪たちに与えてもらった気がする。

そういうことをふまえつつ、タコ星人らしさを無くさないで、愛とか恋の話を今後もちょいちょいしていこうと思っております。

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